車窓から

車窓からの景色を眺めることが好きだと気づいたのは、地元を離れてからだった。

 

最寄駅まで約7km、電車は1時間に一本。車社会の田舎で育った自分は、車から見る景色は当たり前で、音楽を聴きながらや家族と話しながらひたすらに眺めていた。

 

そして高校はバス通学だった。しかも路線バスではなく、その高校の学生専用で各家から学校までを繋ぐスクールバス。

バスが通る地区はある程度決まっているのだが、自分はその中心となる地区を外れていて、バスには友人が一人も居なかった。

又、毎日のように小テストがある自称進学校だったのもあって、暗記や課題に追われることも多く、バスの中はとても静かだった。

だから自分は窓際に好んで座り、暗記物がない限りは自分の世界に入り浸り、朝には動き始めた街を、夕には一日を終えた街を横切りながら窓の外を眺めていた。

流れる景色をぼーっと流れるままに目に入れるだけのこともあれば、時には通り過ぎた人のその日々を想像したり、時には止めどなく思案を渦巻かせたり、あるいは聴いている曲に意識を沈ませたり。

今の一瞬目に写った、煙草をふかせて自身の畑に佇むおじさんを今日一日覚えていよう、なんて無駄なチャレンジをしたり。(きっと当時は学校についた時点で忘れていただろうが、これを書いている時にふと情景を思い出した)

 

家族の車に揺られているときも同じで、今思えば不可侵で心地よい「なにもしない」をしていた時間だったのだろう。

 

高校を卒業して専門学校に入学するタイミングで地元を離れ、車の免許を持っていない自分は徒歩と電車が移動ツールの生活になった。

電車でも車窓から景色が見えない訳ではないが、立とうが座ろうが大きな窓から見える景色の前に数人の頭。またスマホをいじったり、本を読んだりでそもそも外を見ていない時も。

外を見たとて向かい合って座るあの座席は、正面の人と目が合ったり、人が行き来していてどうも気が散る。

やはり、車やバスから左ないしは右に流れる景色を一人ぼっちで(少なくとも意識下では一人の空間で)眺めるのが好きだったのだ、と。

 

同じ理論で言えば、新幹線などでも同じことができるのではないか。

運が悪ければ隣に誰か来るかもしれないが、窓を独り占めできればこっちのもん。

まだまだ遠出しにくい時世ではあるが、いつか全てが明けたら、ひたすらに車内でたそがれるのを目的とした旅に出てみたいと思う。

とは思ったけれど、おそらく新幹線は流れる景色が早すぎて、思考が巡る前に目が回る。

座席指定の特急列車くらいにしておこう。